実は私、友だちがいっぱいいたんです、という重大発見

多くのクライアントが、継続セッションの最初の段階では「友だちが少ない」という表現をします。

親友がほしい。ソウルメイトがほしい。

そんな切実なる思いを口にする人も多い。

でも、数ヶ月、彼らの言動を注意深くモニターしていると、なんかどうも、誰かと遊びに行っていたり、何かを相談していたり、波風たっていたり。

その相手って、友だちじゃないの? そんなに頻繁に会ってて、それ親友とかってことじゃないの?

という疑問が湧き上がります。

ユーミンの歌で、「疑うこともなく、知り合う人々を友だちと呼べた日々へ…」という歌詞が出てきて、

その頃は、かなり暗黒の時代で(苦笑)、友だちなんて数名もいないと思っていた自分は、複雑な気分で聴いていました。

やっぱり誰も彼もを友だちだなんて思えないよね、という共感と。

そんな難しいことを言ってたら、友だちなんてひとりもできないかも、という不安と。

じゃあ、友だちって、いったい何なのさ、という苛立ちと。

今となっては、「別に、知り合う人を皆、友だちと呼んだっていいんじゃない?」って気楽な感覚でいるんですけどね。

当時だって、クラスメイトが何十人もいて、バイトの仲間もいて、LGBT関連のつながりもちゃんと持ってて。

それ、皆、友だちと呼んでいい間柄だったかもしれないのに、ひとり孤独感に酔っていた日々。

青春ですね(笑)。

歳を取ると丸くなる、とよく言いますが、揉まれて、揉まれて、たいへんなこともいっぱいくぐり抜けて。

だんだんと、どうだっていいじゃないか、ということが増えてきて、いい具合に図々しくなるのですよね。

必要なときだけ連絡しちゃ、なんでいけないの?

会いたいときだけ会おうって言うと、なんで誠実さが足りないことになるの?

友だちって定義を、厳格に、ハードル上げて捉えていると、とかく生きづらくなりがちです。

関係の深さや近さは、決して一緒に過ごした時間の長さじゃないはず。

一度、ご飯食べに言って楽しかったなら、友だちって言い方していいんじゃない?とクライアントに言うと、驚かれたりします。

フェイスブックで共感してつながったら、それも友だちでいいんじゃない?

そんなことを言おうものなら、かなり奇妙がられてしまう。

でも、その気持ちはもちろんわかります。

何もかも、人によるもの、であり、時と場合に応じて、であり。

何年も連絡しあわなくても、ばったり会えば、まるで昨日も一緒にいたかのように話せる人もいるだろうし。

ずっと知ってて、つながっているけど、関係が薄いままで、友だちという響きとは程遠く感じる人もいるでしょう。

そこに、だから、定義なんて別にないのですよね。

友だちと知り合いの境目なんて、本当にいい加減で曖昧なもの。

自分が今、会いたいな、と思えば友だち。

誰かが、ねえ、会おうよ、って言ってくれたら、その人もきっと友だち。

子どもみたいな、そんな無邪気さじゃ、ダメですかね?(苦笑)

ゼロか、100か、みたいな思考をしている限り、人はなかなか幸せ感とか、安心感とか、充足感とか、味わいにくいものです。

人に利用されそうな不安や、ずかずかと土足で上がられることへの警戒心や、信頼を裏切られることへの恐怖心は、とりあえず横に置いといて。

知り合う人を皆、友だちと呼んでみる厚かましさで生きても構わない。

別に、それで誰にも別に迷惑かけたりなんかしない。

そう、ゆるく考えてみてはどうでしょうか。

実は、友だちがいない、と言っていたクライアントが先日のセッションで、

「実は私、いろんな人から食事に誘われたりするんですよね。

友だちっていう定義を、難しくしてましたね~」

と、この数ヶ月で最大かもしれない重大発見をしたように報告してくれました。

世界がまったく違って見え始めているようですし、なんか、ほっこりと楽しそうです。

でしょ? と得意げな私(笑)。

私がいつも提唱している、しあわせ感、豊かさマインドというのは、考え方をほんの少し変えて現実を見つめ直すだけで、手に入るものなのです。

友だちについては、そういえばこんな記事も書いているので参考に。

矛盾するようで、してないんだと思ってますが、さて。

友だちはいなくてはいけないもの?
https://www.hajimeueno.com/archives/7325