「逃げた」私が許せない…? 間違った精神論に振り回されない

以前、新卒で入った会社があまりにも合わなくて、辞めたくてしょうがないのだけれど、「なんか逃げるような気がして」思い切りがつかない、という相談が、23歳男性とのセッションでありました。

逃げる? なんだ、その考え方は~、と笑ったのですが、日本では、結構、こんな風に考えている方が多いんですよね。

先日もクライアントのひとりが、「日本での日常からとにかく抜け出したくて、○○○に逃げてきてしまった、という後ろめたさみたいな感覚があります」なんて言い出して。

えー、すっごく幸せな出来事があって、自らの決意で生活空間をジャンプして、勇気持って実現したことなのに、そんな風に思ってるなんて、もったいなさ過ぎ…

「逃げる」って言葉の使い方、意味合い、すべて間違ってますよね~?

我慢が美徳? 解釈を間違えている

そもそも、これって、日本の「忍耐」「我慢」が美徳、ってところから来ている考え方で、途中でやめちゃけない、とか、同じ場所で下積みをしてこそ花が咲く的なことが、背景にあるわけですね。

でも、身の危険を察したり、「不快」が日常にあるのだとしたら、自分の意志で離れることができるのが人間の権利だし、本能のひとつでもあるのだと思います。

それを、「逃げた」と思われたら嫌だ、怖い…と、そちらの方向に縛り付ける考え方は、自分を苦しめるばかり。

会社なんて、いつだって、どんな理由だって、理由がなくたって、辞めていいんです。

「私が辞めたら、皆が困る…」というのは、辞められない人の常套句ですが、自分をちょっと買いかぶりすぎ。

組織なんて、いくらでも回るんです。

万が一、回らないとしても、それは経営者でもないアナタの責任なんかじゃありません。

たくさんあるのに見えてない「選択」

選択がなかった時代には、ひとつの場所で、じっと我慢して、耐えて、耐えて…みたいなことが美徳とされていたのかもしれません。

が、今は、選択がいっぱいありますよね。そして、それが可視化されています。

ひとつの選択から、より良い選択へと移行しただけのことで、それは「逃げる」とは言わないはずです。

そんな風に「考えさせる」圧力は間違いだし、つい罪悪感を感じてしまう自分は、大らかに許して、目の前の現実に集中しましょう。

でないと、せっかく移った「次のステージ」が台無し。

キラキラと輝く、生きがいあふれる毎日が訪れるはずなのに、過去から見えないヒモで引っ張られていては、ちっとも前に進めません。

逃げた、のではなく、単に「辞めた」「離れた」「去った」だけ。

自分ファーストで、わがままに生きていいんです。

逃げちゃいけないときもある

ただ、自分らしさの追求をする段階で、「チャレンジ」は訪れますが、舞台の袖で足がすくんで、そこから逃げちゃうと、なかなか望み通りのものは手に入らないですよね。

そのチャレンジは、「チャンス」であって、一度限りの「テスト」じゃないんです。

そこは、しっかり見極めないと、またグルグルしちゃいますから気をつけましょう。

逃げるべきとき、逃げちゃいけないとき、その見極めを間違えると、行きたい場所とは違う場所に行き着きます。

結局のところ、「やりたいことをやればいい」のですよね。

最高の参考書が出ています。

まずは本を読んで、自分のマインド刷新から。

数千円でできる最高の自己投資ですよ。