とある企画で、とか言ってもすぐに前職関係とばれるくらいに、今、他に仕事があるわけではないのだけれど(苦笑)、英語を学ぶということについて、あらためて調べている。
アメリカに住んだら英語が自動的にできるようになるのかというと、小さな子供ならまだしも、大学生から来たとしても、かなり怪しいままだったりするのが現実だ。よっぽどアメリカの社会やカルチャーが好きで、アメリカ人といつも一緒にいて、彼らの生活の中に入り込んで日常を過ごしていない限り、英語はいつまで経っても習得したと感じることができない。
もちろん個人差が激しくて、日本にいてもできちゃう人はできる。耳の良さや物怖じしない態度や、そもそも人とコミュニケーションを図るのが大好きな人は上手になりやすい。おしゃべりな人の方が絶対にいい。僕のように、日本語でも口数が極端に少ないタイプは、英語を話すということに関しては、ひじょうに厳しい道を歩まねばならない。アメリカ人は、日本人の何倍もの量を話す人たちだから。
アメリカ人と20年一緒に住んで、大学院まで行って社長までやったんだから、それなりにはできるようになっているけれど、そもそも来る前に日本でかなーり自分はやった方だったんだ、と、自分と英語の関わりについて懐かしく思い出す。
中学の英語の先生がとても素敵で英語が好きになった
中学の橋本先生という女性がアメリカ留学経験のある方で、ハロウインやサンクスギビングの習慣など、アメリカの文化をちゃんと教えるように努力してくれた。発音もとてもきれいな先生だった。何より英語が好きでしょうがないオーラで包まれていたし、存在そのものが明るかった。カーペンターズ、ビートルズの歌の意味を教えてくれた。僕も自然と英語が大好きになった。
中学の英語が得意だったかどうかは、基礎的な文法力となってちゃんと現れる。文法力は書く力になって現れる。だから、全然無駄じゃない。今はメールの時代。だから、書く力はとんでもなく大事なのだ。
高校に入ると、僕はアメリカ映画やTVドラマに夢中になる。字幕なしでは何も分からないけれど、吹き替えは嫌で、英語でちゃんと体験したかった。大学に入ると映画の現像をする会社でアルバイトをして、ETはフラッシュダンスなど、キラキラした80年代のアメリカ文化の洗礼を受けまくった。
思いがけず英語を使う仕事についてしまった
同時に、アメリカ人と付き合いたくて、そういう場所へ出入りしたりしたけれど、まともに英語は話せるわけではなかった。何とか卒業して働き始めたのは、海外向けに広告を作る会社だ。日常的に英語との関わりがあった。アメリカの支社の担当とファックスでやりとりする機会も頻繁に発生した。英語を見てくれる人、コピーライティングをする人はいたけれど、でも日常では自力で解決すべきことも多く、ある程度、必死になって英語を勉強せざるを得なかった。駐在経験のあるクライアントのオジサンたちが流暢に英語を話すのがかっこ良くて仕方なかったのだ。
アルクのヒアリングマラソン、というのをやった。CBSの「60ミニッツ」を題材に使った英会話教材も通勤の行き帰りにいつも聞いた。単語本もイディオム関係の本もいくつも読んだ。そしてバブルの時代の高価な英会話学校で、プライベートレッスンを何年も受けた。グループでは全然ダメだと思って、ローンを組んで、自己破産しそうになるくらいにまで追い詰められたのに、それでも止めたくなくて、ものすごく無理をした。ずいぶんと借金もした。迷惑なことこの上ない。
その学校はバブルがはじけた後で倒産してしまうのだけれど、渋谷校のスタッフの方々にも先生にも本当にお世話になった。感謝してもしきれない。
そのおかげもあって、僕は28歳で外資系の広告代理店に何とか潜り込むことができた。そこでも英語を学ばせて貰う機会はあって、2泊3日の英語のビジネスプレゼン合宿に派遣してもらったりもした。日本語でも人前で話せないのに、英語でだなんて、心底、病気になりたいと願うくらいに憂鬱だったけれど、会社がお金を出してくれたので行かざるを得ず。でもプログラムは良くて、学んだことは今も役立っている。この頃でTOEICはすでに830点くらいまで届いていたと思う。
本当はこれが一番役に立ったのかな。アメリカ人とのお付き合い
20代の真ん中くらいからは、アメリカ人の駐在員、それも位の高めの人たちとのおつきあいが始まっていた。日本人男子と付き合って一緒に住んでいた方たちで、そちらの日本人の方と仲良くなり、よく一緒に遊んでもらったものだ。市ヶ谷や千駄ヶ谷、半蔵門、青山一丁目とかにある家賃が60万円とか100万円とかの外国人向けマンションに住んでいて、しょっちゅう遊びに行っては、知らない世界のことを教えてもらっていた。
おもてなしが上手で、会話が上手で、アートが好きで、旅行体験も豊富で、経済に詳しく、ビジネスに長けていて、美味しいレストランに詳しい彼らは憧れだった。そんな洗練された人たちのグループで、僕はひとりシングルで英語もひどかった。会話になかなか入ることができなくて頷いているだけだったり、そもそも話すべきことを自分が持ちあわせていないことが恥ずかしくて仕方なかった。ただ、彼らのボーイフレンドの大事な友だちという立場で、とても優しくしてもらっていた。
1993年に、その後20年を共にするパートナーと出会い、必然的にディープなコミュニケーションを図るようになったが、その時になって「自分がなぜ英語に惹かれ、こんなに必死に追いかけてきたのか」の本当の意味を知った気がした。ああ、この時のために自分に準備をさせてくれていたんだね、と腹にストンと落ちるものがあった。それほど僕は何ものかに導かれるようにして、その場所に辿り着いたんだ。
移住してからの英語の苦労はまた別なレベルで訪れたけれど、長くなったので、それは今度あらためて書くことにしよう。