親との関わりは、いつまでも心が試される修行でございます

耳の遠くなった母親と弱っていく父

9月半ばの1週間の予定外旅行を含めると、すでに千葉の自宅に15日ほど泊まっていることになります。出張でホテルに泊まった3泊を除いても12泊。ほぼ2週間。

そろそろロサンゼルスの自宅に帰りたくなっています(笑)。あの広い部屋。ガランと物が少ない余裕が生み出す気の流れ。天気の心配のない永遠の青空。車の生活。有機野菜との親密な暮らし。自分が100%コントロールできる食事と睡眠。ひとりの時間…。

いろんな意味で、ホームシック。

実は母親はかなり前、多分10年くらい前から耳が遠くなり、電話でも、対面の会話でも、聞き返されてばかり。母親以外は、もともと大きな声で話をする家族ではないので、いちいち腹式呼吸で腹の底から完璧な発声で遠くの誰かに叫ぶように話しをしなければならなくなると、とにかく億劫で、話すのが面倒になりました。

母親の声はますます大きくなり、電話で姉妹や親戚と話す声はほとんど怒鳴り声に近いほど。話す内容が楽しいことではないことも重なって、やや嫌悪してしまう自分がいるのも否定できませんでした。そういう自分も嫌で、だから近寄りたくなくて…、という悪循環。

胃がんが頚椎に転移して、骨がもろくなっている父は、進行を遅らせる意味で放射線治療を受けています。すると、どうしても喉が乾燥したり、ポリープができてはつぶれたりして、声がかすれて出なくなるようです。かれこれそんな状態で2週間。

「ただでさえ耳が聞こえない母さんだから、もうまったく会話ができなくなったよ、何言っても聞こえなくて…」と父。

補聴器をすすめてみたら意外な反応に驚愕!

いやあ、まだ元気で、どうやら自宅療養に戻ってきそうな感じなので、そういう「会話が成り立たない状態」は困ります。そんなこんなで、自分もまた困っていたし、そろそろいいんじゃない?と思ったので、意を決して母親に補聴器のことを持ちだしてみました。

一度、ちゃんと耳鼻科に見てもらって、適正な補聴器をつけてみてはどうか、と。そういうのって結構、保険でできるんでしょ?と、お金の心配がないように添えてみたのですが、母から出てきたのは思いがけない「激怒」の反応でした。

「なんでそんなこと言うのよ! 補聴器だなんてとんでもないわ! 年取ったら、皆少しは聞こえなくなるのよ。別に生活に支障をきたしてるわけでも何でもないのに、ひどいこと言わないでよ!!」

その反応に、今度は自分が動揺します。

いや、動揺というよりも、はるかに大きな感情の波が身体の芯からこみ上げてきて、自分で自分がコントロールできなくなりそうなほど、ワナワナと震えました。

そしてそんな自分に驚いてしまったのです。

過去のビジネスやパートナーとの関係で、相当修行をさせていただいたと思っているし、そこでずいぶんと学んで成長してきたつもりです。抑えきれない怒りや不満も、ランニングやヨガを通じて抑え、そして「感謝」という万能ツールを手に入れて、すっかり遠ざかっていたはずなのです。

それが、こんな身近で大切な存在に対して、自分が再び怒りを爆発させようとするなんて…。「ずっとまともな会話ができなくて苦労してんだよ、こっちは!」みたいなことを、やんわりと言い返してしまった気がしますが、動揺しすぎていて覚えていません。やんわりではなかった可能性が高いですが、思い出したくもありません。

頭ごなしに怒鳴られたことへの収まらない怒り

それにしても、補聴器という言葉がどうしてそれほどまで母の心の琴線に引っかかってしまったのでしょう。それはその後、このトピックスでの会話を避けているので分かりません(苦笑)。まるでなかったかのようにふたりして振る舞っています。

母は、ずーっと前に目が悪くなっているので、普通にメガネをかけて文字を見てきたし、足が悪くなってからは杖を持たないと、外に出ようとしません。そのことと、耳が遠くなったので補聴器をつけることとの間に、何の違いがあるというのでしょう。そこが何と言っても解せない。

僕などは、リーディンググラスをすることも別に何ともないし、前歯はセラミックの差し歯だし、髪だってきれいな方法があるならば、植毛だろうが、地肌移植だろうが、ある種のウイッグだろうが、全然OKだし、人工的すぎなければ、メディカルスパ系のトリートメントだって抵抗ありません。

そういうことから比べれば、補聴器なんて目立つものでも何でもないし、耳にすっぽり入っちゃうわけだし、最も抵抗ないもののひとつです。スパイ映画みたいで、007になったみたいで、ややカッコイイ、とか思ってしまうほど。今やきれいなものもいっぱい出きていて、調べているとオシャレじゃないですかあ。

それがなぜあんな風に激怒されねばならないのか…?

母の琴線にいったい何がどう触れたのか?

良くわからないけれど、多分、母の固定概念の中では、補聴器というのは、「おじいちゃんの口、臭い!」と孫に言わせた入れ歯のCMくらいに厳しいものなのかもしれません。失禁用のおむつだったり、入れ歯用の接着剤だったりと同じくらいに、母の中で「老い」の象徴のひとつなのでしょう。時代は変わって、最も手軽に矯正可能な五感のひとつになっているかもしれないのに、むか~しのまま、イメージが止まっているのでしょうね、きっと。

しかし、老いが嫌って言われても、もう来年早々に80歳なんだし、とっくに意識が座っているとこちらは勝手に思っていたわけですが、どうもそうではなさそうです。ただ、病院の先生から言われたら、同じ反応は絶対にしないはずです。お医者さん、命ですからね。

あと、可能性としては、先に逝ってしまいそうになっている父親寄りの発言やものの見方が自分も多くなってはいるので、そのことがちょっと面白くない、というのはあるでしょうね。今まで病人で、かまってもらえるのは自分の方だったので…。って、本当にそれでは子どもなのですが。

いやいや、こんな生活があと丸2週間。サバイバルできるんでしょうか。こっちがストレスで病気になりそうです。まじめに。心の平静を保つために、もっと修行せい、とこんな機会を与えて頂いてるんですよね、きっと。

ありがとうございます。