自分が、日本を離れてずいぶんと経つせいなのかどうかわかりませんが、ときおり日本のメディア(ウェブ含む)で見聞きする「海外では」とか「欧米では」とかいう言葉に、大いなる違和感を感じてしまいます。
もう、これらの言葉の役割は終わったのではないか、これらを使っている動機や意図から含めて、見直してみた方が良い時期なのではないかと感じるのです。
制度や規則、習慣などのことで、日本は遅れてるよ、ということを、もっともらしく裏付けたいがために、「海外では」とか「欧米では」という表現が用いられることが多いようです。
しかし、こういう疑問がわいてきます。
1.「海外」とは、どこの国のことか? 日本以外、全部?
2.「欧米」とは、どこの国のことか? ヨーロッパとアメリカ、全部?
もちろん、全部、なわけがなく。例外は常にあります。とくに1の場合なら、例外の方が多いはず。日本とそれ以外をいっしょくたにして比べるケースって、きっとないですよね。
ヨーロッパとアメリカ、もっというと、かつての西欧と北米、という、「かつての先進国」的な意味合いで使われるのですが、それがとても乱暴な括り方であることは、落ち着いて冷静に考えれば、誰にでもわかることでしょう。
欧米も雑な括り方ならば、欧州とひとつで表現するのも、きわめて粗い括り方ですよね。北米も、州によって、地域によって、まったく違うことも多いですし(州独自の制度を連邦政府のものと混同して「全米では」と報道されることもあります)。
もっといえば、日本だって、ひとつではない。たまたま「制度」とか「規制」とか「習慣」について言われたりすることが多くて、日本はとかくセントラルコントロールされていて、統一感があったりするので、ひとつとして語りやすいところがあるのかもしれませんけれど(でも、これだってケースバイケースのはず)。
こういう「一般化」=Generalization(ジェネラライゼーション)は、実は、結構、日常的に陥りがちなものです。
「他の人はみな」とか「働いている女性は誰も」とか「子どもを持つ親なら」とか「LGBTは」とか、ケースバイケースで分解して細かく語るべき時に、ひょいっと無造作に括ってしまったりすることは、多いものです。
決して、偏見、というわけでもないでしょうが、無意識の不用意、というか、罪意識のないステレオタイプ化、というか。
微妙なものはおいおい取り組んでいくとしても、海外では、欧米では、というのは、微妙でも何でもなく、それが使われる時は、使う人の中に、ちょっとざらっとした意識が含まれているのも感じます。
日本は、こんなに遅れてるよ、と、自己卑下をするというか、今のなお残るコンプレックスを丸出しにするというか。なぜ、引き合いに出さないと、まともに論じることができないのかな?と、ざらっとしてしまうようです。
せっかくここまで成長した成熟社会たるべき国なのに、自信レベルがいつまでも育たずに、もったいない結果になっていないかなと思うのです。
日本を訪れる旅行者も増え、受け入れ体制も本腰を入れて築きあげていかなければならない今(そこに大いなる可能性、活性化の芽があるわけで)、内と外、という二極化ではなくて、国、文化、宗教、あるいは、個々の人間、という単位で、世界をミクロで見る必要があるはずです。
日本、という国の、世界でのプレゼンスを上げるには、まずはそうやって、世界をきちんと丁寧に知ることが大事で、そのためにも、「海外では」「欧米では」なんて不用意な表現をやめることから、スタートしてみてはどうなのかなと感じています。
「グローバル人材の育成」という言葉を聞くようになって久しいのですが、まずは、そんなところから深く根付いた意識の源を洗いなおすのも、ありですよね。