なんでも自己責任として放ったらかすのは、もってのほかですが、過保護にするのはもっとかわいそうなことになると思っています。
自分で考える力を養う。自分で判断する勇気を育てる。自分で責任を取る覚悟を知る。
それは、全部、「生きる力」を身に付けるために重要なこと。
過保護にして、問題が起きないように、失敗しないように、あるいは(自分が)文句を言われないように、すべて先回りしてやってあげたりしていると、その人は、いつまでも成長する機会に出会えないまま、無防備で、能力が低く、判断力がなく、使えない人に育ってしまうのではないかと思うのです。
日本の社会は、全体がそうなので、外に出た時に、びっくりしちゃうことが多いかもしれません。
アメリカとか、聞けば親切に教えてくれますが、聞かないと、誰も寄っても来ない。日本の銀行のように、親切に係の方が声かけて、用紙までそろえて、番号札まで代わりに取ってくれて、カウンターの人に念押しまでしてくれない。してくれるわけがない。
過保護と、細部まで厳しく管理して、はみ出すことを許さないマイクロマネージメントは、見た目の厳しさはずいぶんと違いますが、実はとても似ています。
どちらも、考える自由を奪い、考える力を身に付ける機会を奪い、自分で判断できないロボットのような人間を育てますよね。
先日、ハワイから友人が遊びに来ていました。
彼女は、来年の夏以降はきっとハワイを出て、ロサンゼルスで暮らすことになるのですが、僕たちは「運転」について、話をしました。
ロサンゼルスでは、フリーウエイとか、時速70マイルから80マイル(時速110キロ~130キロ)は当たり前に出します。
どこへ行くにも距離が遠いので、少しでも早く着くために、皆がそんな感じで飛ばしています。
車間距離がとても近くて、よく事故が起きないなあと心配しますが、大丈夫なんです。
警官に捕まらないの?とも思いますが、人の数が警官の数を圧倒的に上回っていて、取り締まりなどいちいちしてられないのでしょう。
もちろん、凶悪犯罪はヘリコプターで追うし、目立った人は、捕まったりしてますが、とても「まれ」な印象です。
しかも、「事故」を目撃することが、それほどないのも不思議に思います。
実際の数字を比較したわけではないのですが、生活者としての感覚で、どうしてもハワイと比較してしまう我々ふたり。
ハワイのフリーウエイは、55~60マイル規制がほとんどで、結構、厳しく取り締まりをしているので、65マイルを超えて運転するのは、なかなか勇気がいります。
まあ狭い場所なので、それでもいいのでしょうし、「そんなに急ぐなよ~」というレイドバックな場所なので、いらいらする方が悪い、という感覚です。
それでも、事故は起きます。
一般道など、もっと顕著かもしれません。
ハワイは25~35マイルがほとんど。ロサンゼルスでそんなスピードで走っていたら、後ろからぶつけられるかもしれません(笑)。渋滞でもなければ、一般道でも、40~60マイルで走るのが、ほぼ常識。信号が変われば、スタートダッシュは当たり前。ガソリン高くても、気にしない(笑)。
マナーは別に悪いわけではなくて、ただ、皆がきびきびしている分、入れてもらったり、割り込んだりするときには、きびきびと、そして毅然とした動きを見せる必要はあります。
ちょっとしたアグレッシブさが、そこには必要。
ただ、それだけです。
土地柄の違い、ということもいえますが、スタンダードの違い、ということもいえます。
では、ハワイで運転している人と、ロサンゼルスで運転している人との、「資質の差」がどのくらいあるのかと言われると、きっとそれほど変わらないはずなんですね。同じ人間ですから。
でも、日頃から鍛えられていると、時速80マイルでも、車間距離などさほどなくても、事故らないで走れたりするようになる、ということなのだと思います。
- 可愛い子には旅をさせろ
- 獅子の子落とし
- いとしき子には杖で教えよ
- 親の甘いは子に毒薬
いろいろな表現があるようですが、どれも皆、似たような意味ですよね。
先日ブログで、「小善/大善」という考え方について書いたのですが、それも、まさに共通する哲学が含まれています。
⇒ 「優しいからこそ厳しくなれる。大善は非常に似たり、小善は大悪に似たり」
なんか、ロサンゼルス住民の運転とか見てると、鍛えられてんなあ~、というのをつくづく感じるのです。
そして、その鍛えられた、きびきびとした、ビュンビュンと飛ばす運転が、自分には、無性に心地良かったりして。
ハワイから出張に来てた頃は、おどおどしていたくせに(苦笑)、今や、偉そうにこんなことを言ったりしています。いや、決して運転がうまいとか、そういうことじゃなくて、単に「慣れちゃって」「これが当たり前」になっただけなんですね。
何が、「当たり前」なのか。
何を、「当たり前」にするのか。
それが、大事なんだろう、ということです。