Agree to Disagree。考え方や価値観は十人十色。違って当たり前

jerryspringershow

アメリカに住んで最初の7−8カ月は、英語学校の学生でした。授業は半日のみ。休みも多く、昼間からよくTVを見て社会勉強をしていました。

生きた英語がバンバン出てくるTVは、格好の教材。ほとんどの番組でクローズドキャプションという、耳が不自由な方向けの字幕が出るので、単語や表現の学習にひじょうに便利でした。

午前の真ん中や、午後の真ん中には、似たようなフォーマットのトーク番組が集中します。これが、生きた英語を学んだり、アメリカの文化や社会、人々のことを観察するのに、ずいぶんと役に立ったのを覚えています。

そこで感じたのは、アメリカ人の皆様は、とにかくよく喋るということです。

量も多いし、声もでかい(笑)。

どんなことにも一家言、ちゃんと意見を持っていて、曖昧さがなく、だからこそ、しょっちゅう意見を戦わせます。

でもさんざん戦わせた後でも、ケロッとした顔で普通に仲良く別な話に入ったりできるんですよね。そこがとても不思議でした。

もし日本人同士が「違う見解」を持っていることが分かってしまって、あんなに白熱したディスカッションしたら、もう喧嘩と一緒。仲違いは確実な状況。

でも、こちらでは何だかパーティとかでも当たり前に自分の意見を展開して、時に一瞬、気まずくなることがあっても、それはそれ、的な切り替えが上手な人が多いです。

それは不思議なことで、私もまだ完全には慣れることができませんし、真似はまったくできません。

英語の表現で、「Agree to disagree」という言い方があります。意見が違うことを認め合うという意味合いでしょうか。

「へえ、あなたはこのことをこういう風に思っているんだ。なるほどね。でも私はこう思うのよね。だって、これこれこうだから。」

そう言いながら、ディスカッションは徹底的に交わすかもしれませんが、それはそれ。感情的に引きずることはなく、別なトピックスに話が移れば、また普通におしゃべり仲間に戻る。

そんな状況がよくあります。

背景には、人は皆、それぞれに違うんだから、ものの見方も意見も違っていて当然、という「大前提」があるようです。

アメリカでは、保育園の時代から、人前で自分の言葉で意見を言ったり、説明をしたり、発表したりすることを求められます。

授業中に質問やコメントをしないと、「参加していない」と受け取られ、必要な点数がもらえないようにもなっていたりします。

人やものごとに関心を抱いて、質問、という形で好奇心を示すこと。

どんなものごとにも深く興味を持って、「自分の意見」を持つこと。

それらは、アメリカで必須の資質です。

なんとなく…とか、どっちでもいい…とかいう姿勢は、許されないところもあって、特別、意見など持ってないことも多かったり、持っていても、別に戦わせるほどの根拠がないとか、そこまでのこだわりはない、ということも多くて、どうしても議論では引いてしまう自分がいます。

ふんわりと漂う見えない空気を読んで、つい八方美人になろうとする自分を自覚するたびに、日本人だなあ、と苦笑。

大人になる、成熟する、ということは、そういうことなんだ、と教わってきたような気がするので、いきなり真逆を行けと言われてもね(笑)。

アメリカのニュースなどを見ていると、街頭でインタビューされても、皆、理路整然ときちんとした言葉で話すし、あってようが、まちがってようが、堂々と主張をします。

そもそも、正解はひとつじゃない、というところからスタートしているというのもあり、「私は」こう思うよ、と押し付けがましくないのも大人な感じです。

十人十色。人の数だけ見解はあり、意見はあり、主張はあります。

人と違うことを恐れず、それは「価値」だと信じて、思い切り表現をしていける文化は大事ですね。

個人力、というのは、そういう表現力の上に成り立つものなんだろうなあと思う今日この頃です。