前職で、日本からの大学生を受け入れて、インターンに送り込む、
というような仕事がありました。
その前段階で、合宿しながら、地元の学生たちとディスカッションしたり、
会社見学したり、LAで働く日本人からお話し聞いたり。
すっごい充実のプログラムで、たった4日間でも、吸収してグングン顔つきが変わっていく。
その成長感ったら素晴らしく、土日だし、社長だし、別に来る必要ないのですが、
個人の興味として、とても楽しくて見に行ってました。
でも、そこで愕然とする事実を見せられます。
現地ロサンゼルスの大学生たちとのディスカッションがあるのですが、
別に厳選した優等生ばかりを連れてきているわけでもないのに、
コミュニケーションの力に、大人と子どもほどの差があって、
確かに英語での会話だから、たどたどしいのは仕方ないけれど、
それ以前に、「日本語でも答えられない」のが歴然としてしまうのです。
一度、社長さんからひとこと、なんて振られて話したのですが、
「皆さんは、英語ができないからディスカッションが
うまくいかなかったと思ってるかもしれませんが、
一度、自分にちゃんと聞いてみてください。
日本語だったら、きちんと自分の意見が言えて、
ばんばん皆にも質問ができたのかどうか?
多くの場合、語学の問題ではないのです。
英語のせいにせず、国際社会に通じる会話力を養う必要があります。」
日本人大学生の場合、自分の頭で考えて、
自分の言葉で表現をする力が、圧倒的に足りていません。
もちろん、それは、教育や、それをベースとした文化、風土のせい。
能力や資質の問題ではなく、どんな大人を育てたいか、というビジョンが政策に足りないせい。
学生は、そのまんまの状態で社会人になるのだから、大人だって皆同じ。
いくら英語の学習とやらをしてみたところで、「表現」ができなければ、
そして、そもそもの「表現すべきもの」を持たなければ、
いくら英語を学んだところで「会話」はできないのです。
英語ができないのか、会話ができないのか。
そこには、深い隔たりがあることを、忘れてはいけません。
私がこれからやるプログラムでは、そこにズバッと踏み込んでいきます。
勇ましい言い方に聞こえるかもしれませんが、
大したことではないのです。
「私はこれが好き」 ← それはなぜか。
「私はこうしたい」 ← それはなぜか。
「私は違うと思う」 ← それはなぜか。
「I」(私)から始まる断定的なステイトメントがあり、
そこに「なぜなのか」の理由がくっつく。
それが、自己表現の基本。
日本の文化の中では、明言や断言を嫌うところがあります。
強い主張は嫌われ、迎合、同調が求められる。
自分は「殺して」他者を「生かす」。
それが、美徳…。
でも、英語の世界、とくにビジネス英語となれば、それでは残念な結果にしかなりません。
英語の壁は、語学の壁ではありません。
アメリカ在住25年の私が知る限り、それは、「会話力の壁」なのだと思います。
その体験を踏まえて作ったのが、この講座。
基本はすべて、ここにあります。
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