コーチ、という言葉が最近、ニュースでもよく出ますよね。
パワハラ、セクハラ、暴力などなど、あんまり良くない出方かな、と思うのですが(苦笑)、スポーツ界は、ず~っと昭和のままだったのでしょうかね。
私も中学では体育の先生に竹刀で頭をビシバシ叩かれたり、目から火花飛ぶほどビンタされたり。
とくに厳しいお仕置きをしたい場合は、当時はやっていた四の字固め、というプロレス技をかけて、子どもを泣かせてましたね、山口先生(あ、実名・笑)。
今ならたいへんだし、アメリカだと暴力事件として逮捕されちゃうけど(笑)、あの頃はどこでも結構そんな感じでした。
テレビでも、「巨人の星」の星一徹お父ちゃんとか、「アタックNo.1」の本郷コーチとか、「エースをねらえ!」の宗方コーチとか、鬼コーチの代名詞的な存在は多数。
もうできません~と倒れてるのに、それでもボールを身体に投げ続けるなんて、スポ根ドラマではつきものの普通のシーンでした。
そういうのを見て育った大人世代は、どうしても「コーチ」という言葉に、そんな厳しさを想像しがちです。
ライフコーチ、という、スポーツとは関係ない分野のものでさえ、いったい何をされるんだろう、と不安に怯えつつ、緊張してのぞむ方が多いです(笑)。
で、私のセッションが始まると、「へ?」って感じで気抜けしてしまう様子。
先日ご紹介した「あさひさん」も、そんな印象だったようで、ブログにコーチング体験をリアルに書いてくれていました。
以下、ちょっと引用。
「コーチというと、宗方コーチみたいなスパルタ式のお尻叩いてくれるのがコーチみたいなイメージがあったのですが、むしろ真逆。
自分で考える力の身につけ方を指導してくださって、穏やかな雰囲気の中、私が物怖じしていることはピンポイントで指摘してくる」
嬉しいコメントですね~。
そう、私の特徴としては、「穏やか」ということは、よく言われます。
以前にも書きましたが、それを「ポヨンとしてる」と言う人もいます(笑)。
大勢、います、はい。
でも、ちゃんと聞いてますよ~。見てますよ~。考えてますよ~。
スポ根ドラマみたいな、ある意味「恐怖政治」的アプローチで人をコントロールしようとしても、人は成長などするはずがありません。
コーチングの目的は、人の成長、自立、真の意味でのエンパワメント。
人の尊厳を損ねるような、ハラスメント的なやり方では、人は萎縮してしまいます。
開いて、開いて、どんどん潜在意識を無防備に裸にしてこそ、「本当の自分」は見えてくるものです。
「北風と太陽」で、太陽が最後は本来の目的を果たすように、コーチングも太陽的アプローチが絶対に正解なのですよね。
ただ、それと「甘やかす」のは別物です。
私の信条は、「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」。
甘やかす(小善)は結果的に人をダメにする。本当に良かれ、とすることは、ときに非情に見えたりもするものだ。
だから、ここはちゃんと突っ込んでいかなきゃね、というところは、逃さず追求していきます。
でないと、せっかくのコーチングが無駄になりますからね。
これについては、こちらに詳しく書いているので、ぜひご参照ください。