相変わらずアメリカのオーディション系番組が好きで、よく観ています。
ファッションデザイナーになるためのものもあり、歌手になるためのものもあり、パフォーマーになるためのものもあり。
審査員が辛辣な言葉でジャッジするのも見ものですが、彼らが「表現者」の中に何を見出そうとしているのか。
称賛や落胆の言葉を聞いていると、明確に見えてきておもしろいのです。
怖れずに、弱さを見せろ!
よく聞かれる言葉が、「ヴァルネラビリティ」。
カタカナにしても、意味はわかりませんね(笑)。
Vulnerability。傷つきやすく、弱い状態であること。弱み。
バリアを外し、鎧を脱ぎ、心を裸にして、自分の弱さを見せることが、表現を「リアル」にし、人を感動に導くというのです。
もっと自分がヴァルネラブルな(弱い)状態を見せろ、と審査員たちは盛んにそそのかします。
それは勇気のいることであり、本当に強くないと、人にさらけ出すことのできないもの。
でも、フェイクな心のままで、観衆のハートをわしづかみにすることはできません。
人は、意外にごまかされないんですね。
だから、表現者たちに、自分自身であれ、あなたはいったい何者であるのかということに向き合って裸になれ、と繰り返しアドバイスするのです。
発信が苦手、という人の本音は怖れ
メルマガやブログをやっていると相談も受けますが、その中で「発信が苦手」というのがとても多いです。
自己開示が苦手。
なんでもない日常のできごと、ラーメン食べました、桜がきれいでした、は言えるけど(笑)、今日はこんなことで涙した、とか、思っていたことがうまくいかずに落胆したとか、
そういうことを正直に書くのは難しい、と。
確かに、今、この瞬間に痛みがズキズキしている状態で開示するのは難しいですよね。
別にそんなことはしなくても良いのです。
だけど、すでに過去となって、少しだけ痛みが風化した事柄になら、あらためて向き合って、表に出してみると、癒やしにもつながりますよ…
なんて話は、こちらでも書いています。
他人の目が気になる人の「他人」とは自分自身
- 弱い人間だと思われたくない
- 弱音ばかり言っていると嫌われる
- ネガティブは、鬱陶しく、うとまれること
- 人に頼ってはいけない
- そのくらい自分で解決できるはず
そんな風に教え込まれてきて、だから、辛い時でも、痛みがあっても、笑っているのが良い、と思いこんでいる人も多いですが、
自分に正直に、何でも外に出しちゃっていいんですよね。
押し殺した痛みは、奥の方でしこりになってしまうかもしれません。
笑顔で絆創膏した傷口は、確かに出血は止めてくれるけど、でもジュクジュクとした表面は乾かない。
だから、最初はちょっと痛いけど、傷をぐいっと開いて、外気に晒す。
そのことで、痛みはどんどん癒やしの方向に向かって和らいでいくものです。
本物の共感がなければ感動は生まれない
オーディション番組では、ヴァルネラビリティ=弱さを見せられた表現者に対して、審査員から絶賛の言葉が送られます。
勇気ある態度。それこそが本当の強さだ。生身の「あなた」に触れて感動した。
本物の「共感」が生まれた瞬間です。
キラキラ輝くリア充な人にも、ちゃんと明暗、光と影はあります。
その影をきちんと表現したときにこそ、はじめてそのきらめきが浮かび上がってくるものですよね。
「強そうで弱い人」はいっぱい見てきました。
それは、自分を取り繕わねばならない、と思っている人であり、自分に正直ではない人だったりします。
「実は、私、こう見えて…」
隠さずに、その「実は」を語れば良いのです。
言うだけで、どんどん芯が強くなっていきます。いろんなことが、実はなんでもないことがわかってきます。
だから、勇気を持って。