家族の時間 vs 大人の時間。パパ・ママではなく恋人同士の時間を持つということ

ChrisHajime

香港からダンス修行に来ている友人の娘さんたちと飲茶&ドーナツのランチ in LA

フェイスブックで離婚宣言

Facebookでつながっている知人、おふたりが、立て続けに「離婚」のアナウンスメントを投稿されていました。

おひとりは30代、もうおひとかたは50代、と勝手に想像しております。どちらも男性でした。

知人、友人がつながっている場だからこそ、なるほど、知らせるには良い場なのかもしれないなと思う反面、反応には困りました。

メッセージは、大きな決断をされた後なので、潔く、気持ちが前に向いている印象でもあり、「いいね!」と応援しても、おかしくはないのかもしれません。

近い間柄ならば、きっとそうした後で、個別メッセージでも送ったかもしれません。

ただ、そこまでの関係でもなかったので、「ひどいね」というのは文脈としておかしいし、「悲しいね」と勝手にこちらが決め込むのも余計なことだし。

夫婦のこと、家族のことは、当人同士にしかわかりません。

真摯な文章をただじっと拝読し、おひとりおひとりの人生のドラマを思いつつ、告知された勇気に心で拍手を送りました。

「子どもが出ていったら、どうしよう」と不安がる奥様

私の周囲には、ハワイでもロサンゼルスでも、40代~50代の女性の友人がたくさんいるわけですが、気を許した関係の方々は、時に夫婦の関係についても話されます。

「私、子どもが家から出ていったら、旦那と何も話すことなんかないし、どうしたらいいんだろう?」

家の中の会話は、常に子どもを介したもので、夫婦の間に、取り立てて共通の話題もなければ、関心事もないと話す方が、少なからずいます。

Growing apartと英語では言いますが、時間の経過と共に、ふたりの成長してきた方向や速度がまちまちで、今やすっかり違う場所にいる。

かつては確かに恋人だったけれど、恋愛感情が冷めてみたら、別に友だちでも何でもなかった。

視界が共有できるわけでもなく、家の中に、まるで他人が住んでいる感覚なのだと言ったりする人もいます。

そもそもは「恋人」として始まった関係が、いつしか暮らしの中で生活を共にするパートナーとなり、そして子どもができると、今度はお父さん、お母さんになっていきます。

セクシーな「恋人」としての関係は、どこかへ置き去りになってしまう。

その内、ふたりの関係は、すっかり「家族」となり、今さら恥ずかしくて恋人になど戻れなくなっていったりもする。

子どもの未来に責任を持つ親としての精神的な絆はあっても、ドキドキするような、大人の関係はそこにはない。

それどころか、人として成長していくこととか、社会的に意義深いことに参画していくこととかとんでもない。

可能性を追求して、もっと高いステージに上がっていきたいと願ってコーチングを受けるクライアントの場合、とくに価値観のズレは、折り合いを図るのが難しいようですね。

男として、女として。そして未来を語るパートナーとして

これは、男女どちらにも共通して聞かれることですが、とくに40~50前後のクライアントの場合は、「残り時間」を気にされたりもします。

「性的にアクティブでいられる時間など、あと少しなのに…」

そのことへの対応の仕方は、人それぞれで、守秘義務もあるし、ブログを読まれて邪推されても困るので詳しく書くのはやめておきましょう(苦笑)。

そしてまた、タイムリミット説は、勝手に自分で作り上げたものであって、アメリカにいると、かなりなご高齢になっても、そちらの方もがんばって現役を保っている様子をお見かけするので、あんまり気にしない方が良いかと思われます。

自分から勝手に老けこんではいけないのです。

離婚率の高いアメリカでも、セックスレスは問題になっています。

それが浮気の原因、そして果ては離婚の主要因になることも多いため、デートナイトなどを設けて、子どもを預け、あえて「恋人に返る」習慣を忘れないように取り入れているカップルも多いようです。

マリッジ・カウンセリングも盛んで、価値観が大きくずれないように、互いの健全な対話から、相互理解を深め、愛情を取り戻す努力を主体的に行っています。

素敵な家族を作ること、家族に尽くすことと、大人の関係を保つこととは、まったく別軸で考えておかないといけないよと、あえて意識的に努力しているのが見て取れます。

どんな関係もそうですが、植物のように、水をやり続け、肥料を与え、たっぷりの日を浴びせ、大切に「育てて」いかねばならないものなのだと、スペシャリストさんにインタビューをしたときにもおっしゃっていました。

「意識的になる」というのは、そうしなくてはいけないものなのだ、というところに、意識を払う、ということなのでしょう。

ライフパートナーとしての夫婦

セックスレスのことは置いておいても、少なくとも、精神的な絆で結ばれたライフパートナーとして、貴重な存在でありたいですよね。

本来的なすれ違いは、ここから生まれることの方が多いような気がしています。

コーチングを受ける方々には、必ず、その理由と、どんな人に受けているのかを、パートナーにきちんとお話してくださいね、とお願いします。

でないと、お相手は、「今の生活に何の不満があるのか?」「私では話し相手として不足なのか?」「配偶者の自分にも言わないことを、なぜ他人に話すのか?」「私が言っても聞いてくれないのに、他人の言うことはなぜ聞くのか?」など、邪推が邪推を呼び、関係性が一気に悪くなるケースが、あるからです。

これは、かなりの確率で起こるので、ぜひお願いしますね、と念押しするのですが、話しにくいのか、内緒にしていて、後で「勃発」することも…。

「大人の時間」という言葉の真意は、必ずしも「性」だけを意味するのではなく、「恋愛」だけを意味するのでもなく、人生を共に歩むパートナーとしての、意義深い時間である、という風に考えてもいいのではないかと思います。

ついつい、仕事の話。お金の話。そういう目の前のことに集中しがちですが、そうではなくて、5年後の未来、10年後の未来、夢、希望、そこへたどり着くための道筋、努力。

そういうことが話し合い、互いを応援し合える仲であれば、リスペクトも生まれ、パートナー感が深まるのではないでしょうか。

そもそも、育ち方(育てられ方)とか、社会の風潮、価値観から言っても、男性と女性は違うようです。

ようです、というのは、やはり自分がゲイとして、どちらにも属してない気がしているからなのですが、感覚的に女性の言うことは、とてもよく理解できるのですが、育てられ方としては、男性の方に属してきたので、男性が男性たるところも、よくわかります。

そして、その上で、「ああ、男女が分かり合うって、ずいぶんと実はたいへんなんだな」ということも、とてもよく見えたりします。

まあ、「人間同士」が分かり合うこと、そのものが、すでにたいへんなわけで、黙っていてもわかりあえるもの、と考える方がおかしい、という前提に立った方がいいということですよね。

LGBTな関係でも、結局はパートナーシップがすべて

最後に、私は1994年からずっと一緒に暮らしたパートナーと、2013年の暮れに、一度別れました。

その時点で、すでに出会って20年、という長い関係でしたので、相当な決断でした。

でも、決めた直後は、かなりスッキリして、20年ぶりに遊ぶつもりで、スポーツタイプの車を買ったり、都会に移り住んだりしたのです(笑)。

彼はハワイへ行き、私はロサンゼルスに残り、セカンドライフ(だかサードライフだか、何度目のやり直しかわかりませんが・苦笑)を模索し始めました。

が、途中、省きますが、結果的には、1年後、我々はまたロサンゼルスで一緒に暮らし始めていました。

そして、今も、そのまま、一緒にいます。出会いから数えると、すでに22年以上。

子どもも、家族も身近にいない我々の場合は、もう互いの存在がすべてです。

子ども、という便利な媒介がいなかったがために、友情だけは、すくすくと育ちました。

パートナーを失っただけでなく、ベストフレンド、親友を失ったことが乗り越えられず、また一緒に暮らすようになった、というのが、なんとなく近い気がしています。

友人たちの家族と一緒に過ごすたび、子どもがいたら、どんな生活になっていくのだろう、と想像はしてみるのですが、自分のことで忙しくしすぎて、ついつい忘れます。

養子の夢は、10年前にエグゼクティブコーチに掘り起こされて、いつも夢リストの中にはあり続けているのですが。

最近は、ハリウッド映画でも、60代後半~70代が主人公になる映画とか、結構多いのですが、それらを未来予想図のように眺めながら、お手本にすべきところを取り入れたりもしています。

結局のところ、何に優先順位を置くか、ですね。

大事だと思ったら、大切にして、時間をかけて、育てていく努力を払うこと。

なんか、この話題は、うまく、まとめられません。まとめる必要もないか…(苦笑)。

参考 ハリウッドも高齢化。それでも明るく若々しく、いつまでも現役で「歳を取るのも悪くない」と訴えかける

いろんな夫婦のあり方はあるけれども、なかなか「表」にそれを晒して、見比べる、ということはできないものです。

だからこそ、こういう本を読んでみると、世間が見えてきて、参考になります。

日本もこれから、どんどん離婚が増えそうな気配がしますね。