アメリカ大統領の年に一度の年頭スピーチを、
議会を司る議長という立場の人が、
ビリビリ破ってみせるパフォーマンスに、
主義を一緒にする人たちも、かなり唖然。
その感情的な態度が恥ずかしい、というコメントが
党派に関わらず、全方位から聞かれました。
日本でも、状況を冷静に見ている方々からは、
「多様性」を旗頭とする左派勢力こそが、
相手の主張や政策にリスペクトを持たない
という言論が出るほど。
いや、これ、最近、とみに目立っているんですよね。
怒り、という感情をあらわにしながら、
声高に「正義」を振りかざす人々はやたらと怖く見えるし、
そこには本来あるべき「寛容」の欠片もなければ、
意を異にする人々へのリスペクトもまるでない。
その一方的さ加減は、「暴力的」にすら見えるときもあります。
子どもも見ている「アメリカのあり方」を学ぶ場で、
こんな大人になっちゃダメよ、っていう姿を見せられて、
あちこちで、語り草になってしまいました。
もちろん、それを擁護し、称賛する人もいますけどね…。
(注:政治的信条の話をしているのではありません。)
かたや日本では、こんな記事を見て、
あー、こんな大人にはなりたくないし、
こんな世界を作りたくないし、
これを日常で見て育つ子どもは
どんな大人になるんだろう、とゲンナリします。
訴訟が多いと言われるアメリカですが、
公園が、こんな風に看板で埋め尽くされるようなことはありません。
他人種、多文化な割には、そこは
「常識」の範囲で、皆で折り合いつけてくれって感じ?
子どもを対象とした犯罪に対しては、
厳しすぎるほどに目を光らせているけれど、
でも、当の子どもたちの、のびのびとした遊びの場を奪って
「禁止事項看板の博物館」にしちゃうのは、本末転倒。
何やってんねん、って感じですよね。
私も、自分ファーストでいこう〜とか言ってますが、
それとこれとは、全然、意味が違う。
大人を大人として扱えば、看板だらけにはならないのに。
日本は観光地に行っても、無粋な看板が多くて、
景観を守るために「看板禁止法」があるハワイから行くと、
びっくり仰天したものです。
どんな社会にいたいのか。
どんな未来に生きたいのか。
それらは、全部、自分たちの手中にあるのに、
今、この瞬間の、目先の感情に溺れて判断を失うと、
見えなくなってしまうのですよね。
だから、10年先、20年先、50年先の未来をリアルに想いながら、
「逆算した今」を、先取りして、生きること。
深呼吸して、胸に手を当てて、我に返って。
すべてはうまくいっていると、ただ信じて。
すると、見えてくる違う選択があるはずです。
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